「不登校になるまでの経緯」
1999年。小学5年の時、隣のクラスの男子K君に、廊下ですれ違うたびに「キショイ」「キモッ」と
小声で言われるようになった。辛くなって担任のS先生に打ち明けると、S先生がK君を注意してくれたらしい。それ以来「キショイ」と言われることはなくなった。
この頃から、なんとなく周りのクラスメイト達から孤立し始めていて、ちょっとしたイジメもあった。でもS先生が味方になってくれていたし、1年生の時から一番の友達だったHちゃんと同じクラスだったおかげで、学校に行けなくなる状態にはならなくて済んでいた。
2000年。小学6年になり、Hちゃんと違うクラスになった。
新学期当初、6年3組のクラスメイト達とは、仲が良くもなく悪くもなかったように思う。
いつからかは覚えていないが、クラスメイトの中で孤立するようになった。私は普通に接しているつもりなのに、相手に避けられる。無視されるわけではないのだが、避けられていることを感じていた。シカトされていた。私の隣の席になった子は、その子の机と私の机をくっつけることを嫌がった。
2学期、掃除の時に誰も私の机を運んでくれなくなった。掃除の時間が終わって教室に戻ると私の机が教室の後ろに残っている。それが毎回続くようになった頃から、6年3組に私の居場所はないと感じ、学校が辛いだけの場所になる。
私のものに触れることを嫌がられた。私が他の人の机を運ぶのも、嫌がられた。総合学習の班を決めるときも、私だけ取り残される。
先生に相談はしていた。5年生のS先生に助けられた経験があったから、先生がクラスメイト達に注意してくれたら解決するんだと思っていた。
だけど6年3組のK先生は、何も解決してくれなかった。現状は何も変わっていかなくて、私はシカトをされ続けていた。
K先生に裏切られたと感じた。学校に裏切られたと感じた。学校はいち生徒なんて守ってくれないんだと思った。
休み時間に一緒に遊ぶ子なんていない。
授業中は勉強していればいいから楽だったが、休憩時間はものすごく息苦しい時間だった。
ひたすら本を読んで休憩時間を耐えた。本の外側のクラスメイトの気配に緊張感を張り巡らし怯えながら、「みんなが私を避けるなら私もみんなと一切関わってやらない」と、どんどん自分の殻に閉じこもっていった。
一度誰かが気を使って話しかけてくれたことがありました。「※※さんって何でずっと本読んでるの?」と。私は「本好きだから」とだけ答えて、そこから会話を続けられなかった。どうせ私の事なんてみんな嫌いなんでしょ、って思っていた。
時々、朝に頭が痛くなる日がありました。痛いから休みたいと言うと、決まって父に「学校に行けば治る」と言われるんです。それで仕方なく学校に行くと、本当に頭痛が治りました。でも朝になるとまた頭が痛くなって、「学校に行けば治る」と言われて学校に行くというやりとりが何度かあったことを覚えています。
孤独で辛いだけの場所の学校に、それでも我慢して通っていたのは「学校には行かなければならない」と思っていたからです。不登校の存在なんて知らなかったし、父には学校に行きなさいと言われるし、「学校に行くことは当たり前のこと」で、学校に行かないという選択肢は考えたこともありませんでした。
辛い気持ちを抱えきれなくなったある日、母に打ち明けました。苦しくて苦しくて苦しくて涙がいっぱい出ました。内臓をわしづかみにつぶされるような心の痛みを感じました。
母は私の様子をみて「そんなに辛いなら学校に行かなくていい、行くな」と止めてくれました。
6年生の2学期の終わりに不登校になりました。確か10月か11月だったか、ちょっとはっきり覚えていませんが。とにかくも私の人生の中で一番辛い時期でした。
2011,05,11/2015,07,14記
「不登校になってからフリースクールに出会うまで」
不登校当時の生活はとても暇でした。
朝は遅めに起きて、テレビでワイドショーを見て、お昼ご飯を食べてテレビでワイドショーを見て、といった具合です。勉強はあまりやっていなかったと思います。まだ我が家にはパソコンがなかったし、珍しくゲーム機もない家だったので、テレビばっかり見ていました。
母が専業主婦なので一日中一緒にいてくれました。
家にずっといるのは退屈なので、時々、母の買い物についていきました。平日の昼間に子どもがスーパーにいるなんて変に思われるだろうなと思うと恥ずかしく、誰とも目を合わせないようにしていました。それでもすこしは気が紛れました。
母が色々と手だてを探ってくれて、精神科にも行きましたが全く意味がありませんでした。市の子どもセンターみたいなところにも行き、カウンセリングを受けたこともありますが、あまり効果はなかったように思います。
不登校にはなっても、引きこもりにはなりたくありませんでした。友達も欲しかったし、居場所が欲しいとずっと思っていました。
そんな中、神戸フリースクールという場所があると親が見つけて来てくれました。
学校みたいな建物をイメージして見学に行ったら2階建ての小さな民家でびっくりしましたが、もうここしかないと感じました。見学したその日に通うことを即決して、小学6年の2月から通わせてもらえることになりました。
フリースクールでは、もちろんシカトなんてなくて、学校にいた時のように変な子だと思われることもなく、他の子たちもスタッフも“一人の人間として普通に接してくれること”が何より嬉しかったです。
2011,06,05/2014,07,14記
「小学校卒業」
2学期の終わりに不登校になってからは、卒業式までほとんど学校に行きませんでした。
5年生の時の担任だったS先生が家まで訪ねてきたり、別のクラスのHちゃんが「はやく学校にきてね」という手紙を持ってきてくれたりしたけれど、殻に閉じこもってしまった後に優しくされても、もう遅かったです。
卒業文集は書きました。小学校には鼓笛隊があり6年生が担当しますが、オーディションで念願の小太鼓になれたことについての内容でした。不登校になったせいで鼓笛隊を最後まで務められなかったことは当時とても悔やんでいたことでした。
その後あろうことか、担任のK先生は私の卒業文集をコピーし6年3組のクラス全員に感想文を書かせました。その感想文は私の家に届けられました。
私のご機嫌を取るつもりだったんでしょうか。私を見せしめにして、何のポイント稼ぎでしょうか。ふざけるなと思います。こんなことに使われるなら卒業文集なんて書かなければよかった。
卒業式はクラスメイト達と一緒に出席はせず、体育館の2階のバルコニーから母と一緒に見学をしました。6年3組にはもう一人不登校生がいたんですが、その子も一緒だったかな?ちょっと覚えていないです。卒業証書はあとで校長室で校長先生から貰いました。
最後に卒業生全員で在校生や保護者が見る中で校門を通るとき、担任のK先生は私の手を固く握っていました。それはもう痛いくらい強く。
私はK先生がが大嫌いでした。K先生は助けを求めても助けてくれない。裏切られた気分でいっぱいでした。私の知らないところでK先生なりに一生懸命やってくれていたのかもしれません。でも、私には何の役にも立ちませんでした。
2011,11,13/2015,07,14記