「粟島留学制度」
私が不登校になってフリースクールに通い始めた頃に、2歳年上の兄と2歳年下の妹も学校に行かなくなっていました。
その頃に香川県三豊郡(現・三豊市)の粟島での「留学」の募集を親が見つけてきて、2001年の新学期から母と兄妹3人で島暮らしをすることになりました。
粟島では過疎化が進み子どもが少なくなっていたため「留学制度」として子どものいる家族を募集していました。当時の粟島は人口が400人くらいでほとんどが高齢者。粟島小学校は生徒が3人くらい、粟島中学は15人くらいだったかなと思います。
離島での生活は、何にもない田舎だったけれど自然に囲まれてそれなりに楽しく暮らしていました。釣りをしたり、牡蠣をとったり、山に登ったり、海で遊んだり、都会では出来ない体験がありました。
しかし島の学校に通うようになった兄や妹とは違い、私は学校に通うことは出来ませんでした。田舎の小さな学校にはイジメもシカトもなかったけれど、先生も生徒も仲良くしてくれそうだったし、木造の校舎は趣きがあって素敵だったのだけれど、どうしても学校に通えませんでした。
小学校で「学校に裏切られた」と感じてしまったせいで、学校への不信感がそう簡単にぬぐえませんでした。学校に行くだけで緊張して肩に力が入って、拒否反応が起こりました。先生が優しく接してくれても、頑固な性格なこともあって、学校に心を開くことが出来ませんでした。
粟島での生活は3年続きましたが、私は結局、島の中学校に籍を置きながらも通うことはせずに暮らしていました。仕事があるため明石市の実家に残った父と2人で暮らしながら神戸フリースクールに通ったり、3ヶ月~半年くらいの周期で、明石と粟島を行ったり来たりしていました。
2011,08,08/2015,07,14記
「中学校卒業」
せっかく「粟島留学制度」で粟島中学に入学したのに、全然通えなくて意味がないということになって、中学3年生は地元の中学に転校することになりました。小学生の頃の一番の友達Hちゃんのいるクラスにしてもらいました。
けれども、私が地元の中学に行ったのは一年間の内たった2回だけでした。最初に挨拶に行った時と、最後に卒業証書を貰いに行った時だけ。教室に入ることは私には出来ませんでした。担任の顔も名前も知りません。制服も持っていませんでした。
2015,07,14記